糞母日記

人生はつづいていく

もうみんな他人のことなんてほっとこうぜ

小一の息子が学校で絵の具セットを注文。

水色地にスヌーピーが描いてあってボタンがキラキラしているものを選んだ。

女子達に「女の子みたい」と言われたらしい。

「何を選ぶかとか何をするかとかに性別なんて関係ないのにね!」

と憤っていた。

 

「子供」というやわらかな人格にとって大切なのは、

まずは「自分」の土台というか軸をしっかりさせることなのではないかと思っている。

私は私であり、いついかなる時もどんな自分でも尊いのだと思える強固な土台。

どんな「らしさ」も押し付けられる必要はないのだとはねのける事のできる強さというか図太さを、

手にして欲しいと願っている。

私もまだまだ若輩者ですが、煩雑な雑音を「ワタスはワタス!」と一蹴できるかどうか、

これは不必要に傷付かずに生きていくための重要なポイントなのではという気がしているのです。

今のところ息子はその強さを身につけているような気がするけど、

心配なのは娘。

女の子はロングヘアでピンクでなければならぬ、と思い込んでいるのだ!!

一番近くにいる母親が毎日毎日「性別なんてオマケ!私は私!」と演説しまくっていてもですよ。

無意識で無自覚で悪意のない刷り込みって本当にこわいよ。

じわじわじわじわ、どこかで誰かに「当たり前」を刷り込まれてくる。

そして息子がジェンダー意識高いキッズになっているのに娘だけがこんなにも頑なにジェンダーバイアスで自分を縛っている、この様を見ているとやはり女性の方が日常的にジェンダー規範を押し付けられているのだなと思わずにはいられない。

 

「当たり前」は誰かを透明にする。

力の強い立場にとっての「当たり前」はなおさらにだ。

この国に、いわゆる「日本人」として産まれた私は、私達は、

産まれながらにしてものすごい特権を持っている。

マジョリティであるゆえの特権は、マジョリティの立場からでは自覚しにくい。

自分と同じ人種の人がテレビに出ている、自分と同じ人種の人形を買える、

人種によって命を脅かされる事がない。

これらは特権だ。

誰も透明にされない世界がいつか実現されるといいな。

せめて子供達が大人になる頃には、どんな人も自分らしく自由に生きられる世界に今よりなっているといいな。

これはその一歩であると信じて、今日も子供達にあなたはあなただよ!と伝えようと思う。