その場所からじゃ見えないものがある
今でこそ私は左翼で、くたばれ家父長制と刺繍したバッグを制作して持ち歩くほどやる気に満ちた左翼であるが、
恥ずかしながら、昔は自己責任論者でネトウヨ思考だった。
女性であることで自分は得しかしていないし、差別だ!って思うのはあなたが上手くやれていないからじゃないの?私は優秀な女性なので差別なんてされてませ〜ん!と思っている名誉男性だった。
女性差別を内在化してしまっていたので、
セクハラを上手くかわして、男性を立てることのできる自分は女性として素晴らしいと思っていた(オエ〜〜〜〜〜!!!)
変わったのは、「妻」「母」の名で呼ばれるようになってからだ。
「妻」や「母」の立場から見る世の中は凄まじかった。
私が毎日ゆっくりトイレにも行けず満足に眠れもせず子育てしているのは「当たり前」だが、
たまーに抱っこ紐で外出するだけで元夫は「イクメン!」と称賛される。
自分の子供について当事者意識を持たないクソ男は擁護され、女は「あなたが上手く夫育てしないと」と言われる。
「夫を手のひらで転がす」「いやぁ〜結局女性にはかないませんよ(^^)」なんて、一見耳障りよさげな言葉たちで。
自分一人の時間は1秒もない毎日の中、
久しぶりに一人の外出に「ぼくってイクメンでいい夫でしょ」顔で送り出されてみれば、
「今日はお子さん預けてきたの?いい旦那さんだねー!感謝しなきゃね!」と言われる。
子供を、その子供の父親に、「預ける」ってなに!?
妻や母として感じる「それおかしいよ」は私の目から鱗をボロボロと落としまくった。
ああ女はこんなにも不条理な目に遭っている。
思えばあれもこれも女性差別だった。
私はセクハラにはぶちぎれて良いし、
サラダを取り分ける必要なんてなかったんだ!エウレカ!
離婚して、妻の座を降りて、無意識にしていた夫への「わきまえ」を捨て、男への忖度を捨てて生き直し始めた人生はあまりにも「私のもの」だった。
誰かに押し付けられ刷り込まれた「女」としてではなく、
ただの「わたし」として生きることは私を取り戻す道のりであり、
私はこれが好きでこれが許せなかったんだった、私はこういう「人間」だった!!と噛み締めている。
権力勾配の上の方から(上の方にいると思い込んでいる場合も含む)では見えないものがある。
いわゆる「普通のおじさん」、つまり、
「典型的日本人の人種的特徴と日本国籍を持つ日本人として日本に暮らす健康で健常な異性愛者のシス男性」のためにこの社会は設計されている。
子供達が大人になる頃には、
今より少しでもマシな社会になっていますように。
いないものにされる人がいなくなりますように。
すべての名前に光が当たりますように。
そうする責任が大人にはある。