レイプ・カルチャーとは
性暴力が存在することが普通のことだと捉えられていて、
レイプをしないように教えられるのではなく、「されない」ように教えられる文化のこと。
ちょっと用があるから家に来て欲しい、と言われて家に行ったらセックスを迫られた。
という話をネット上でしている人に対しての声のほとんどが、
「家に行ったら当たり前」「家に行くって"そういうこと"でしょ」
という内容だった。
幼いうちからの、性的同意についての教育が必要。
私の身体は私だけのもので、あなたの身体はあなただけのもの、
勝手に触らないようにしようね、勝手に触らせないようにしようね、と、
自分の子供達には常々言っているけど、
刷り込まれてしまったものを書き換えるのは本当に大変。
「居酒屋に来るって"そういうこと"でしょ」
と言って、飲みたくないと言ってる人の口を無理矢理こじ開けて酒を流し込むのが許されるのか?
家でも、ラブホテルでも、同じベッドの中でさえも、どこだって、
「そこにいること」はセックスしていい理由にならない。
相手からの明確で積極的な同意以外は全て理由にならない。
服装もまた理由にならない。
誰かがもし深夜に全裸で歩いていたとしても、
それはその人の身体を触っていい理由やその人に性的な言葉を投げかけていい理由、セックスを求めていい理由にはならないのだ。
私は昔交際相手に交際相手の部屋で別れ話をしていたところ無理矢理セックスされ妊娠して中絶した。
誰にも相談はしなかった。誰か大人に話せていたら、病院に行ってアフターピルを処方してもらったりできていたかもしれない。
なぜ話せなかったか。
「交際相手」に「交際相手の部屋」でされた行為だったから。
私自身がレイプ・カルチャーに毒されていた。
その時は気付けなかったけど、あれは紛れもなくレイプだった。
だって私は同意をしていなかったから。
そしてこの話の悲劇のハイライトは、
数年後母親にそれを話した時に、「どうして別れ話を部屋でなんてしたの」と言われたことですね。
加害者が絶対に絶対に100%悪いんです。
傷ついている人、どうか無責任で無知な人達の言うことになんて耳を貸さないでね。
あなたには何の落ち度もないんだから。
育んで守るもの
血を分けた子供を産み育ててみて最も強く思ったことは、
血の繋がりなんてなんの意味もないな、ということだった。
産んだから親子なんじゃない。
この子を育てるぞ、この子を愛すぞ、という決意と覚悟をして、
向き合い、通じ合い、積み重ねた双方向の絆、それこそが親子の証なのだ。
母性神話なんてカスですよ。
虐待する親、子供を捨てる親、子供放置で遊び回る親、そんなの掃いて捨てるほどいるじゃん。
努力して、覚悟して、それで初めて手に入るのだ。
親子の絆、子供からの親に対する信頼というものは。
それでも小さな子供というのは親子関係が彼らの世界のほとんどを占めていて、「あなたが全て」という顔で無償の愛をくれる。
それに甘えちゃいけないな、と思うんです。
特に我が家は大人が私一人だけですから、
独裁者になってはいけないなと思うんです。
つい、親という立場、大人という立場に甘んじて、
力関係が平等ではない口のききかたをしてしまう時がある。
親友には言わない事も子供には言えてしまったりする。
「毎日大変なんだから仕方ないよ。親だって人間だよ。」という声も聞こえてきますし確かにあまり自分を追い詰めてもいけないとは思うけど、
それでもやっぱりそれは不誠実であり不正義だと思うんです。
覚悟と、情熱をもって、ただ一つ正義にもとづき子育てをしたい。
自分の内側に在る小さな不正義を見て見ぬふりをするとか、自分との約束を破るとか。
そういうのが、水が少しずつ少しずつ石を丸めていくみたいに自分を尊く思う心を摩耗させていくから。
先っちょが折れやすくなろうとも、ウニみたいに尖った石でいたい。
摩耗するのはとてもこわい。
外から見たんじゃわからないよね
妻が急死し借金を作りまくって首吊り自殺をしたアルコール依存症の叔父は、
飲み仲間達からは羽振りのいい明るい人だと思われていたらしい。
私もきっと周りからは元気な人と思われてるんだろうけど、
この一年間で2回ほど「まじで死のっかな!」と思った。
あれは別居したばかりの冬で、3人の子供を寝かせてから一人でゆっくりお風呂に入っていた。
脱衣所の電気は消して、クリスマスツリーに飾るみたいなフェアリーライトだけつけていた。
浴室のドアのガラスごしにぼんやり見えるその光を見ながら長い入浴をして、浴室から出た。
静かな暗い家、ライトがきらきらと光っていた。
ああ死のうかな、と、本当に唐突に思った。
おえおえ泣きながら、クローゼットのポールに体重をかけて強度を確かめた。
でもその日の昼間は私の大好きな友達が遊びに来ていたので、
「このタイミングで死んだら◯◯ちゃん後味悪いな」と思って我に返った。
もう少し早く様子を見にきていればと泣きながら弟の死体を抱きかかえて下ろした母に娘の死体まで下ろさせるわけにはいかないし、
何よりもこの子達を泣かせるわけにはいかない。
そんなの当たり前すぎてまじで自殺なんてありえないのに、いつもなら本当に本当に至極当たり前にそう思えているのに、
ふっ、と死神に手を引かれるような瞬間ていうのがあるんですね。
「自殺の兆候なんてなかった」って言われる人は、我に返らないまま実行してしまった人なんだろうなぁ。
人の心っていうのはどんなに近くにいる人でもわからないね。
自分でもわかれないんだもの。
余談だけど、
先日ネットの工事に来てくれた人が、死んだ叔父の息子、つまり私の従兄弟と一緒に仕事をしたことのある人だった。
その人は叔母が死んだばかりの頃に叔父の家に工事に行ったらしい。
呼び鈴を鳴らすと、やっとのことで起き上がったという風情の叔父が出てきて、
死んだ妻が予約した工事だ、と話したそうな。
叔父の姿を見て、奥さんを亡くすと人ってこんなんなっちゃうのかぁ、と思ったらしい。
そして数年後従兄弟と仕事をすることになり、従兄弟が「妻を亡くしヨロヨロになっていた人」の家の子供だと判明。
あの後父は自殺しました、と聞き驚いたそう。
同僚にその事を話すと、同僚は「その人弱いんだね」と言ったそうだ。
その後従兄弟とは仕事の関係で会わなくなり、数年後に自分も妻を亡くし、
死にたいくらい辛かった(今もそうであるという口ぶりだった)らしい。
その彼を踏みとどまらせたのが、自死遺族として苦労していた従兄弟の姿と、「あの人弱いんだね」という同僚の言葉だったそうだ。
今の自分があるのは叔父や従兄弟のおかげ、不思議な縁を感じる、と言っていた。
実はその人は私が以前住んでいた家にも工事に来てくれてたんですよ。
向こうは覚えてないかもしれないけど、私はその時の彼が全然喋らない死んだ目をしたおじさんだったことを覚えてる。
だから2回目に会った時にこんなに会話してくれてびっくりしたの。
時期的に、死んだ目をしてた時はパートナーを亡くしたばかりの時だったのかも。
私ねその時「愛想のないおっさんだなー」って思ったんですよ。
ほんとうに、外から見たんじゃわからないんですよね。
なんにもね。
あのおじさんが長生きしますように。
映画「イエスタデイ」
Amazon primeでイエスタデイという映画を見た。
スーパーで働きながら歌手を目指すもパッとしないジャックがひょんなことから「ビートルズが存在しない世界線」に飛ばされ、
ビートルズの歌を発表してスターダムに…という話。
主人公がとことん善人で、ハッピーエンドなのが良かった。
「ビートルズが存在しない世界線」でジョンレノンが生きていたシーンは泣いてしまった。
78歳になったジョンレノン、見てみたかったよなぁ。
見終わってからもずっと暖かい余韻の残る映画だった。
映画のことを思い出しながら、夕食の準備中にビートルズを聞いた。
in my life、オブラディオブラダ。
人生は祝福されている、と唐突に思った。
そんなことを思えない状況の人がいることはもちろんわかっている。
私にも死んでしまえたらどんなに楽だろうと思う日々があった。
それでも、「人生は祝福されている、と思わずにはいられないような美しい瞬間が、
人生にはあるかもしれない」。
ある、と断言はできないが、人生を終わりにすることはその可能性をゼロにすることだということは断言できる。
今この瞬間からとにかく逃げ出したいんだ、というほどのつらさを抱えている人には綺麗ごとに聞こえるかもしれないけど。
いろんなことがあったし、毎日いろんなことが起きる。
死のう、とは思わないけど、「死んでしまいたい」と思ってしまうほどの悲しさに呑まれそうになることは今でもある。
それでもこんな、人生は祝福されている、と思うような美しい夜がある。
優しい映画、美しい音楽、愛らしい子供達、きらきらと光る私の選んだスノードーム。
繰り返される生活の営み、命の匂いがする子供達の肌。
世界は美しい、と思わずにはいられないような素晴らしい夜がある。
命はきっと祝福されている。
人生がつらくても、終わりにしか進めない時間の中だとしても。
鼻の記憶
昨日子供にパシられていちごジャムを買いに行った帰り道、
自転車を漕いでいたら突然鼻が何かの匂いを思い出した。
正確に言えば思い出していたのは脳なんだろうけど、
鼻が思い出したとしか形容できない感覚だった。
鼻が思い出してるんだけど、
ああこの匂いなんだっけ、とギュウギュウ詰め込んだ引き出しからパンプス用靴下のもう片方を探すみたいに記憶の引き出しをあさる、その漁ってる場所は脳なかんじがする、という不思議な感覚。
そしてやっと探し当てたのは「ゆでぐりの匂い」でした。
ゆでぐりかよ!と、自転車(私の持ち物の中で一番高い18万円もした電動自転車)を漕ぎながら驚いた。
だってゆでぐりって、「人生で食べた回数ランキング」のだいぶ下位だよ。
匂いって不思議。
脳の深い場所に直結している気がするのに、実体がないのだ。
例えば目で見るものはそれがなんであれそれをそれとして直接認識できるでしょう。
でも匂いはまず鼻でそれを嗅いで、さらにそれを脳内の「匂いの記憶」と照らし合わせて同じものを探し当て、そしてさらにそれが何の匂いだったかを思い出してやっと「今嗅いでいるのは◯◯の匂いだ」となる。
照会結果が出るまで、その匂いは名前を持たない。
日頃嗅ぎまくってるものなら照会作業は一瞬でできるけど、
唐突なゆでぐりだと時間がかかる。ウンコは一瞬でウンコ。
厄介なのは、同じ匂いを嗅いでいても照会作業に齟齬があると確かに鼻は同じものを捉えているのにそれぞれの「これは◯◯の匂い」が食い違ってしまうこと。
元夫はぞうきんの匂いや生乾きの衣類の匂いを「すっぱい」と形容した。
確実にすっぱくはねーよ、と無性に腹立たしかった。
これを最近私がカワユイ!と思っている韓国ドラマ「sweet home 僕と世界の絶望」の主役の男の子が言ったら確実に腹は立たないであろうことを思うと離婚は正解だった。
みなさんも、嗅覚の照会結果が食い違っても笑い合える相手と結婚しましょう。
p.s. 「sweet home 僕と世界の絶望」は、主役の子がとにかくキャワユイ!のと、
いつも丁寧な物腰のクリスチャン男性国語教師が日本刀で敵を倒したあとに「アーメン…」とつぶやくのが狂おしいほどに心・盛り上がり私の中の中学2年生が大暴れしてしまう
今日は雨 ベランダのサンダルが濡れてしまった
自分と違うものはひとくくりにして名前を付けてラベルを貼ってしまえば自分は無印の「普通」でいられる。
「無思想」を自称するのって、そういう思考が透けて見えてる。
「普通」とそれ以外。「普通」と違うものだけ名前が付けられて、
「普通」なのは無いのと一緒、あるのは異端ただそれだけです、というスタンス。
無思想の人なんていないでしょう、みんなそれぞれ何か思ってるでしょう。
ただそれを言って「めんどくさいやつ」ってなるのが嫌なだけなんでしょう。
議論もできない未成熟な人間関係なんて捨てちゃえばいい。
もうみんな他人のことなんてほっとこうぜ
小一の息子が学校で絵の具セットを注文。
水色地にスヌーピーが描いてあってボタンがキラキラしているものを選んだ。
女子達に「女の子みたい」と言われたらしい。
「何を選ぶかとか何をするかとかに性別なんて関係ないのにね!」
と憤っていた。
「子供」というやわらかな人格にとって大切なのは、
まずは「自分」の土台というか軸をしっかりさせることなのではないかと思っている。
私は私であり、いついかなる時もどんな自分でも尊いのだと思える強固な土台。
どんな「らしさ」も押し付けられる必要はないのだとはねのける事のできる強さというか図太さを、
手にして欲しいと願っている。
私もまだまだ若輩者ですが、煩雑な雑音を「ワタスはワタス!」と一蹴できるかどうか、
これは不必要に傷付かずに生きていくための重要なポイントなのではという気がしているのです。
今のところ息子はその強さを身につけているような気がするけど、
心配なのは娘。
女の子はロングヘアでピンクでなければならぬ、と思い込んでいるのだ!!
一番近くにいる母親が毎日毎日「性別なんてオマケ!私は私!」と演説しまくっていてもですよ。
無意識で無自覚で悪意のない刷り込みって本当にこわいよ。
じわじわじわじわ、どこかで誰かに「当たり前」を刷り込まれてくる。
そして息子がジェンダー意識高いキッズになっているのに娘だけがこんなにも頑なにジェンダーバイアスで自分を縛っている、この様を見ているとやはり女性の方が日常的にジェンダー規範を押し付けられているのだなと思わずにはいられない。
「当たり前」は誰かを透明にする。
力の強い立場にとっての「当たり前」はなおさらにだ。
この国に、いわゆる「日本人」として産まれた私は、私達は、
産まれながらにしてものすごい特権を持っている。
マジョリティであるゆえの特権は、マジョリティの立場からでは自覚しにくい。
自分と同じ人種の人がテレビに出ている、自分と同じ人種の人形を買える、
人種によって命を脅かされる事がない。
これらは特権だ。
誰も透明にされない世界がいつか実現されるといいな。
せめて子供達が大人になる頃には、どんな人も自分らしく自由に生きられる世界に今よりなっているといいな。
これはその一歩であると信じて、今日も子供達にあなたはあなただよ!と伝えようと思う。